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今月の秀作と選評



 (2008年6月) < *印 新仮名遣い>

星野 清(新アララギ編集委員)


秀作



まりも

大根を刻む夫の背広からず独り残してゆけぬと思ふ
夫や子に支へられ来し三十五年過ぎて楽しきことのみ浮かぶ
ブランコを漕ぎつつ孫の呼ぶ声は遠き日のわが幼な子のこゑ


評)
1首目、深刻な状況を窺わせて見過ごせなかった。
2首目は、独立性にやや欠けるきらいはあるが、このままで受け入れられる。
幼かったわが子と孫の声の重なる3首目の歌、この1首でも思いは汲めるが、他の歌と合わせて読めば一層の味わいを覚える。



は る


一人ずつ呼ばれる名前と子の「はい」を入学式に耳澄ませ待つ
川の辺にあまた並べる鯉のぼり風を待ち居りカメラも吾も


評)
1首目。丁寧に表現されていて、母親の緊張感を目の当たりにするようだ。
2首目は最近各地で見られる鯉のぼりの歌だが、下の句に工夫が見られる。



英 山


尾白川渡らむとすれば雪被る甲斐駒ヶ岳大きく迫る
唐松のあはひに見ゆるオベリスクの雪寄せぬ切っ先黒く鋭し


評)
両首、その情景をなかなか巧みに写し取っている。



新 緑


辛抱も限度と卵の自販機に五十円アップのシールを張りぬ
麻痺のわれ助手席に乗り妻と行く鶏卵価格の値上げ会議に


評)
この類の歌は、このように直接的に言うのがよい。「五十円アップ」、本来は「…値上げ」と言うべきだろうが。



けいこ


浴室の明かりを消して湯浴みせり古きプレイヤーにチェロ聴きしあと
頼まれし朝の散歩に老犬の寄り道待ちて鶯を聴く


評)
1首目、アナログでチェロを聴き、その余韻を保ったまま…、共感できる。結句を「あと」で終らずに「聴き終へて」などとしたいが、それには他もいじらねばなるまい。
2首目、頼まれごとを果たした者への功徳か。しかし、初稿がこう生まれ変わったことには驚かされた。



山本 景天


はつ夏の風吹く矢切の渡し舟櫓を軋ませて岸離れゆく
ラムネ玉の音なつかしみ舟を待つ矢切の渡しの駄菓子屋の前


評)
初稿からの変遷を顧みてそれぞれの歌にそそいだ、その努力を買う。
2首目の歌、道具立てが面白い。



斎藤 茂


君の名の同級会案内届きたりその夜に君の死の知らせとは



評)
人生には思いがけないことがある、その驚き。この歌のように核心部分を掴み取れるとよい。


佳作



けいこ


たちまちに庭は青葉に変りゆき葉陰に小粒の梅の実あまた
いただきし薄紫のみやこわすれ母にそなへぬ初夏の香りを


評)
1首目、内容はやや平凡だが、丁寧に捉えようとしているところがよい。
2首目の下の句は倒置せず「初夏の香りを母にそなへぬ」とした方が落ち着くだろう。



新 緑


確定申告やっと終えたる帰り道二回休みしリハビリに行く
再議決の国会ニュースに下見せしガソリン店の列に並びぬ


評)
やや事柄に終わっているが、それぞれに歌いたいことはよくわかる。



仲 山


ネックレスの留め金今日は止まりたり手首の骨折ようやく癒えて
西日さす横顔暑くカーテンを引けばあやめの模様あらわる


評)
1首目、ほっとした感じの歌になった。初句に「の」を補った。
2首目の原作「暑し」を「く」として3句以下につないでみた。下の句への展開はなかなかに魅力的。



吉井 秀雄


登りきて望む浅間の頂は日にやはらかく残雪光る
合併に名を失ひし碓氷郡坂本宿に梅の花散る


評)
1首目、迫力にはやや欠けるものの、感じのよい歌となった。原作の「残雪は光る」の「は」は省いた。
2首目は、地名がうまく収まって効果的。「…失ひし」と「花散る」では即(つ)き過ぎるので、このような場合は「梅の花咲く」くらいで…。



山本 景天


打ち損じのゴルフボールが飛んで来る中を渡しの列に並びぬ



評)
いかにも都会の河川敷。このような場合「…中を並びて渡し舟待つ」などと、現在の場面として歌った方がよい。



は る


アスファルトとブロック塀の隙間にもタチツボスミレの花の紫



評)
この内容としては、うまくまとまった。


寸言


選歌後記

◎ひとりよがりの歌から抜け出すために・・・自己批評眼を養う

どんなに言い足りない中途半端な歌でも作者が読めば、その情景もその心も鮮明に思い浮かべることができます。しかし他の人が読んで分からないのでは、歌としては失格です。そのようなひとりよがりの歌にならないためには、どうしたらよいでしょうか。
ひとりよがりの歌でも、歌会で作者からその歌の作歌動機などを聞くと、なかなかに心引かれる場合がよくあります。他人に分からないのは、歌の核心にふれるものが詠みこまれてないことによるのです。
ひとりよがりの歌から抜け出すためには、自分の歌を客観的に捉えて推敲をすることが必要です。すぐれた自己批評眼を持つことは容易なことではありません。が、近づくことはできます。
自分の歌を客観的に見得るようになるには、自分の歌をしばし忘れることのできる時間をとることが必要です。昔だったら、歌のメモは机の引き出しにしばらくしまっておけ、と言うところです。
俗に言う、頭に血が上った状態をさます必要があるのです。反射的に再稿を送り出したがる方々には、このところをよくわきまえてほしいと思っています。
なお、パソコンの画面で見ているよりは、プリントして紙の上の文字として読む方がよく分かるという人は多いようです。
周囲のよい歌を読みながら、それぞれに工夫をして、自己批評眼を養うように努めましょう。


              星野 清(新アララギ編集委員)


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