短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

 大きし (1)

  例の「茂吉索引」によって「大きかりけり」という句を引いてみる。

    うちひびき七面鳥のをんどりの羽ばたき一つ大きかりけり

  ほかに四例あるが略す。 この「大きかりけり」は、「大きくありけり」がつまった形であることは言うまでもない。
そして「大きかりけり」には誰も抵抗を感ずることなく、むしろ自然な言葉遣のように感ずるだろう。 なお「索引」を 見ると、「大きかりし」「大きかるかも」があり、「大きく」という形を求めると「大きく映る」「大きくならむ」「大きくなりて」「大きく見えつ」「大きくもあるか」等が並んでいる。これらに違和感を感ずる人もあるまい。この「大きく」という形容詞の終止形は、「大きし」となることが考えられる。 これはこの「索引」では引くことができないが、恐らく茂吉は使用していないと思う。 それで他の歌人の例を調べると、次のような歌が見つかる。

    空高きくもりの下に横はる釜無山はちかく大きし
            文明「ふゆくさ」

    淡路島向うに大きしその磯の潮のとよみも聞けばきこゆる
            憲吉「軽雷集」

    口すこし大きしとおもふ然れどもいよよなまめく耐へがてぬかも
            牧水「野原の郭公」

  捜せばまだ他の歌人のものにも見つかるかも知れないが、多くはあるまい。この「大きし」はどうだろう。
「大きかりけり」「大きくなりて」などの場合と違って、何かなじめない響きを多くの人は感ずるのではあるまいか。
それは「小さし」という語は昔からあったが、「大きし」というのは、もともと存在しなかったがために、ほかならない。 国歌大観を引くと、室町時代の勅撰集まで含めて「大きく」の形すら、一つも見当らないのだ。
「大きくなりて」式の言い方がないのである。 勿論「大きし」もないはずだ。 (もっとも「大き海」式の「大き」も万葉にあるのみ。 「小さき」「小さし」も、国歌大観になく、和歌の世界には現れない。)

  辞書を点検すると、この「大きし」は、大言海、大辞典、広辞苑、辞海以下載せていない。 それらも「大きい」のほうは無論掲げている。 大言海は「おほきい」を「連体詞ノ大(オホ)キヲ、形容詞ニ活用サセタルモノ、室町時代ニ出来タル口語トオボシ」と説明する。 大日本国語辞典(上田・松井編)のみは「大きし」の項を立て、「此の語おほきく、おほきけれの活用なし。 口語にはおほきいといふ」と述べるが、用例は狂言の「おほきうはござれども」「おほきい盗人めぢゃ」などで、肝心の「大きし」そのものの例は挙げていないのだ。

  戦後出版の辞書で「おおきい」を引くと、広辞苑は「室町以後の語。 オオキを形容詞化したもの」、新潮国語辞典、「室町以後の語か。 古くは活用形は『−−く・−−う・−−い』だけ」、日本国語大辞典「形容動詞『おおき(なり)の形容詞化、室町時代の語』、岩波古語辞典「オオキナリに代って中世末期から使われた語」などと説き、用例は、大日本国語大辞典の引いた狂言のそれを殆どが挙げている。
説明のしかたに多少の差はあるが、「大きい」が室町時代の発生であることは皆認めているわけだ。(つづく)

筆者:「新アララギ」代表、編集委員、選者

夏目漱石の「文学論ノート」より抄記(現代語訳:石井)


 文学の出発は同じでも、ある処に来ると別々に様々な方向に縦横無尽に岐れてゆく。
たまたまある処で他の道を取る者と遭遇することがあっても、それは瞬間的なことで、すぐに又岐れてしまう。
どの道をたどる者が正しく、どの道を取る者が正しくないということはない。 だから、ミルトンを読む者がシェクスピアを知らぬこともあるし、サッカレーを読む者がディケンズを読んでいないこともある。 自分が十年前に読んだものを今読んでいない者があるからと言って、その無学を笑ったり出来るものではない。
 天下の書籍は無限に存在するもので、それを読む順序もないとなれば、読書は同じ軌道の上を行く筈のものではないので、読むも読まぬも差別なし。 

(以上、含蓄のある言葉と思うので抄訳した)

石井登喜夫

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