短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

二つの「ぬ」

  美しき人を見かけぬ春浅き        草城

 あるアンソロジーでこの俳句を見かけた時、「見かけぬ」とは見カケタという意か、それとも見カケナイという意か、解釈にとまどった。俳句の表現の微妙な呼吸は、よく分らないことが多いが、恐らくこの「ぬ」は、完了の助動詞でそこで切れるのだろうと考えたが、あるいは「見かけぬ春」と続けて「ぬ」は、打消しの助動詞なのかもしれない。「春浅き」の状態では「美しき人を」見かけるほうが調和するのか、見かけないほうがいいのか、今でも迷う次第である。

  瀬戸内は春雨にぬれかすみいて近づく島の影さえ見えぬ

 苅田敏夫氏の「春の坂」という歌集より。この「見えぬ」は、見エナイの意なることは見当がつく。それならば「影さえ見えず」として終止形を使うほうが穏当ではないかと思う。

  長梅雨に黴さへ生えぬ食パンの白冴えており不気味さつのる

 或るところの大会選歌で読んだ歌。「生えぬ」はどっちの意か最初は分らなかったが、よく読めば防腐剤のために「黴さえ生えない」不気味さを詠じているのである。
 打消しの助動詞「ず」は動詞の未然形に、完了の助動詞「ぬ」は動詞の連用形につく。四段活用の動詞のように未然連用の違いがはっきりしているものはいいが、「生えぬ」の如き場合、つまり未然連用がどちらも同形の下二段などの動詞のあとにつくような場合は、「ぬ」が打消か完了か、判断しにくい時も出てくる。

  牛飼の歌人(うたびと)左千夫がおもなりを朱欒(じゃぼん)に似ぬと誰か言ひたる

 これは左千夫が明治四十年に「滑稽」という題で詠んだ作。戦後の東京アララギ大会で左千夫作品を少しずつ読んだ時期があるが、或る時土屋先生はこの歌を「左千夫の顔をじゃぼんに似ないと誰が言ったのか、こんなにも似ているではないか」と解された。詰まり「似ぬ」を似ナイの意としたのである。私は似テイルと言うつもりで「似ぬ」と言ったのではないかと思う。もっともそれなら完了の助動詞など使わず、「似る」と言ってすむところだ。しかし土屋先生の解するような意味ならば「朱欒(じゃぼん)に似ずと言えばいいのである。いずれにしても表現上の不備があると言えるだろう。

  直越(ただごえ)の道の方には煙あがるつひに我が越えぬくらがり峠

 土屋文明「続青南集」に「平群谷」という六首がある。その中の一首で昭和三十九年作。「つひに我が越えぬ」は、越エタのか越エナイというのか一見分らない。しかしよく考えれば「我が越えぬくらがり峠」は越エナイのである。「直越のこの道にしておし照るや難波の海と名づけけらしも」(万葉九七七)の直越の道は諸説あるが、作者は奈良から今の暗がり峠を越えて大阪へ出る道と考えている。直越の道と思われる方角にあがる煙を見て、あの暗がり峠はまだ越えたことがないなと感慨にひたる歌なのだ。事実この時は暗がり峠に行かれなかった。
                            (平成3・8)

           筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


寸言


掲示板投稿作選歌後記

 パソコンの更新をしてネットが使えるようになるまで一ヶ月ほど待たされましたので、皆さんに十分な対応ができませんでした。しかしアシスタントの青木さんが奮闘してくださったので無事クリヤーできました。そして20日締め切りのころにもトラブルがあって、多難な月でした。半年ぶりでしたが、皆さんのレベルがよくなっていることを実感しました。

                    小谷 稔(新アララギ選者)



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