短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

 助動詞の「らし」

 文法書を読むと、日本語の助動詞というヤツは、その働きが実に複雑で面倒だなといつも思う。今、扱う「らし」も、日本語の歴史のなかで変遷を重ねた面倒な助動詞のひとつだが、今は割り切って書いてみたい。まず万葉の持統天皇の御製を引く。
  
  春過ぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたり天の香具山
 
 これは、香具山に白妙の衣をほしているという事実を見て、春が過ぎて夏が来たらしいと推定する。「らし」は、「らむ」のような漠然とした推量ではなく、根拠のある確かな自信のある推定なのである。万葉以下「らし」の用法は、この線を守るが、やがて散文では使わなくなり、鎌倉室町時代には殆ど姿を消し、近世になるまで和歌でも使われなかったというのはおもしろい。

  松かぜのとほざかりゆく音きこゆ麓(ふもと)の田井(たゐ)を過ぎにけるらし

 茂吉の「たかはら」より。松風の音を聞くという現実によって「麓の田井を過ぎにけるらし」と推定する。それは万葉等の古典語の「らし」と同様の使い方である。しかしこの歌の続きの、
 
  をやみなく馬追のこゑのとほれるを窿応和尚も聞きたまふらし
  床臥(とこぶし)に床に臥しつつ水のおと目ざめゐるまは聞きたまふらし

となると、句切れを用いて事実とそれによる推定を分けることもせずに「らし」を使って一首全体が婉曲にぼかされた表現になっている。古代には見えない用法であろう。

 さて「らし」は、動詞及び一部の助動詞に接続する。キタルラシ、タマフラシ(動詞の終止形に)スギニケルラシ(助動詞連体形に)というように。ところが、

  森なかに寒さを保つかくれ沼(ぬ)に散り浮くものは木の花らしも

という茂吉の「寒雲」の歌は「木の花らしも」と、名詞に直ちに「らし」を続けている。これは古典にはない用法で、私のような言葉に敏感(?)な人間は、どうも違和感を覚える。「木の花なるらしも」という言い方ならば、勿論違和感はなくなる。しかしそんなことを初めから問題にしない人は、今の口語の「木の花らしい」という言い方にとっぷりひたっているからだ。今我々が使う「らしい」は、「雨が降るらしい」と動詞にもつけるが、「あの音は雨らしい」と名詞にも続ける。それが反映して作歌にも古くは言わない「木の花らしも」という表現が出現する。

  オルドスの起き伏して赤き山並に黒きところは雲のかげらし

 土屋文明「韮菁集」より。この「かげらし」にも、私はどうも抵抗を感ずる。今「水甕」の四月号を手にすると、高嶋健一氏の、「醒めたるは集中室らし妻と娘の顔交交に上よりのぞく」という一首が目についた。「集中室らし」が気になるところだ。また時には「美しきらし」などと形容詞に続ける作者もいるが、これはいよいよいただけない。(平成2・5)



         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


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