短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

 選者の資格

 平成二年の国民文化祭は、十月下旬、愛媛県の松山で行われた。この短歌部門の講師の一人として私も出席したので、そこで選出された作品につき、一言しておきたいと思う。

 全国から提出された歌数は、約四千八百首。選者は県外県内より各十人で一人が二十首を選び、そのなかの一首を特選とすることが前以て決められていた。それぞれの選者が選んだ歌については、本当のところクレームをつけたくなる困った作品もあったが、自分の見落とした佳作を他の選者が拾ってくれる場合もあって、選者が多いということは悪いことではない。ただし次のような作品を選ぶのは、どうも工合が悪いのだ。

  終(つひ)となる飼葉(かいば)食(は)みをゆ廃牛は回想するごと(にれが)みつづく

 県内の某選者が特選に選んだ千葉県の作者の一首。内容はなかなかいいのであるが、問題は、「飼葉食みをゆ廃牛は」の部分である。「終ゆ」という動詞の形については、この「歌言葉雑記」で既に書いたが、勿論「終ふ」が正しい。しかしハ行下二段活用の動詞「教ふ」「答ふ」「換ふ」「支ふ」「堪ふ」の類は、室町時代頃から江戸時代にかけて「教ゆ」「答ゆ」などとヤ行になりがちであった。だから「終ゆ」が必ずしもいけないとは言わない。だが「食みをゆ廃牛」という形を認めるとは何事ぞや、と言いたい。「食みをゆる」と連体形にすべきではないか。もっともここは「食みをへ」と中止法にするか、「食みをへし」として下に接続させるほうが適切である。この歌の選者は、とにかく基礎的な語法上の知識も持ち合わせていないらしい。それは、同じ選者の入選作に、

  紫露草花閉ず庭の夕明りやもり逃げ行く青く光りて

という一首があることでも、分ってしまう。「花閉ず庭」は「花閉ずる庭」でなければならない。ここは新仮名で書いたと思われる。「花トザス庭」かとも思ったが、明きらかに「閉ず」であるからトザスとは読めない。原作に手を入れてはいけないと言うならば、各選者は発表会の席で、それぞれ自分の取った作品について意見を述べたのであるから、そこで一言すべきなのに、この選者は以上の語法については何も言わなかった。この二首につき、他の十九人の選者は誰も取らなかったのは、語法的な難点が気になったということもあろう。もっとも「紫露草」の歌など取るほどの歌ならず。

  いたずらに農に老ゆ身は侘しきに地下足袋はけばすること多し

 別の選者が入選作として取った歌。これも「農に老ゆ身」という「る」脱けの表現を認めているのである。私は文法至上主義者ではないけれど、基本的な語法は、どうしても守らなければいけないと考える。少なくとも選者になるような人は、動詞の活用などについては、一応の知識を持っていなければ選者になる資格などない。
                        (平成3・1)


         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


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