短歌雑記帳

「歌言葉雑記」抄

 久に見る

 先日、あるところの選歌をやっていて、次の一首に出会った。

  久に見るふるさとの海さむざむとテトラポットに埋めつくされぬ

 悪くない歌であるが、初句の「久に見る」が気になった。「久に」だけで「久々に」「久しぶりに」の意味にするのは、実はよく見かけるのだが、私は正しくない用法だと思い込んでいたのである。そこでこの初句を「久々なるふるさとの海」としてみたが、それはどうもよくなかったと今は反省している。斎藤茂吉に次の二作があり、それを注意してノートにも記していたのに、すっかり忘却していた。

  久(ひさ)にしてわが見しものか山かげに杉の落葉のおびただしきを
  しほはゆき湯にあたたまり久にあひし友の体を見をる親しさ

 二首とも「石泉」のなかにある。ちなみに言う。茂吉の歌の表記は、漢字に対してはいわばルビ過多症とも言うべく、読者に親切というか、読み誤まれる警戒心が多すぎると言うか、とにかくルビが多い。そこは、土屋文明とは違うのである。(文明の第一歌集「ふゆくさ」は、総ルビにしたので、例外であるが。)そこで、茂吉作品を引用する時は、今までもそうだったが、ルビは適当に省略することにしている。

 さて右の二首の「久」には、時間の長いことを意味しない。万葉集の「三笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに」(二三四)の「久に」とは、意味が違う。万葉集ではまだ「わが行きは久にはあらじ」(三三五)、「君に会はずまことも久になりにけるかも」(二二八〇)等の例がある、みな久しい意味であるのは勿論である。勅撰集の例などを見ても、それは変らない。それで「久」にだけで「久しぶり」の意味にするのはいけないと思っていたのだが、考えてみれば、今でも「お久しうございます」などとも一般に言うし、「久々」と重ねれば「久しぶり」の意味ともなり、「久し」という形容詞には、おのずから「久しぶり」の意味を胚胎し包含することになる。「久に」の古い用法を転換させて、茂吉の二例のように(このほかには、どうも見つからない。)「久しぶり」の意味に使ってもいいではないかと、今は考えるのである。ほかの歌人にも用例はあるだろう。

 なお「ひさびさに」は、茂吉歌集には、二十例ほど見えるが、この語は、室町時代以後の発生らしく、角川の新編国語大観の索引を見ても一つも出て来ない。ただし万葉集の「相見ぬはいく久(ひさ)さにもあらなくにここだく吾は恋ひつつもあるか」(六六六)とよまれる坂上郎女の歌の「いく久さ」は、「いかほどの長い間」という意味ではあるが、このヒササは、ヒサヒサの約だと言う。それから日本書紀の歌謡の「この神酒(みき)はわが神酒ならず……いく久いく久」という最後のはやし言葉にも連想は及ぶのだが、それは本論と関係ないので、ただ記すだけにとどめよう。

                        (平成3・11)


         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


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