短歌雑記帳

「歌言葉考言学」抄


 ありせば、なりせば

 次に掲げるのは、あちこちの教室や選歌のなかから随時に見つけた作品で、前以って作者名の分らぬものもあるので、作品のみ示すこととする。

1 子等遠く一人わびしく逝きし母今ありせばと思ふ母の日
2 外苑の松の小振りに思ふなり欅大樹の森にありせば
3 車椅子の身にしありせば春の旅欠席の文字まるにて囲む
4 屯田の森のしづけさ尊かり我がふるさとの宝なりせば
5 新しき古典なりせば艶めける高野聖の山姫を恋ふ

 以上の「ありせば」「なりせば」の意味を考えると、1は「今も生きているならば」という仮定する心であるが、2以下は仮定ではなく、「・・・なので」という理由を示す条件句になっている。もっとも2などは「これが欅大樹の森であるなら・・・」という意味合いにも取れそうだが、そうではなく「欅大樹の森の中にあるので」という意味であろう。3以下は明らかに理由を示している。「なりせば」は「にありせば」のつまった形と見ていい。

 さて、古典の用例としては、まず古事記の次の歌謡が想起される。倭建の命が、東征の帰途伊勢の国にたどり着いて詠んだという「尾張にただに向かへる・・・」の長歌の後半に、

人にありせば、太刀佩けましを衣着せましを、一つ松あせを

とある「人にありせば」は、「もし人であるならば」の意で明瞭に仮定である。この「せば」は、過去の助動詞「き」の未然形の「せ」に接続助詞の「ば」がついたという説と、サ変動詞の「す」の未然形「せ」に「ば」がつくのだという説と両説あるが、それはどちらでもいい。要するに「せば」は現実に反することを仮定するのが本意である。万葉集の「かからむとかねて知りせば」という歌も「前から知っていたならば」という仮定だ。次は、古今集の有名な一首。

世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
                    在原 業平

 「なかりせば」は「なくてありせば」で、仮定の意味なることは、言うまでもない。

 では次の歌はどうであろうか。

君のため世のため何か惜しからむ捨ててかひある命なりせば              新葉集 宗良親王

 これも名歌として聞こえているが「命なりせば」は、上代ならば「命であるならば」という仮定でなければならないが、そういう意味であろうか。「捨ててかいある命であるから」という心ではあるまいか。今、国歌大観の索引を見ると「命なりせば」が八例あるが、それをいちいち検討してもいられない。右の新葉集には「つれなしと人には見えじありはてぬ契りにかへし命なりせば」というのもあるが、これも仮定ではない。こういう仮定を離れて既定の条件、理由を示すと誤解された形が、後世まで続いているのであろう。正しい用法ではないが、先に挙げた2以下の「ありせば」「なりせば」も、もう一般的な言い方として認めなければいけないものか。その点は「思ほへば」を仮定でなく「思へば」の意に使う例と似ている。そして「たとふれば」が、元来仮定でないのに仮定に使うのとは、逆の用法になる。仮定と既定とはどうも混線しがちである。

 今、たまたま手許に届いた「風の音」という短歌誌を見ると「使命なほありせばいまだ召されずと死にたしと言う人にまむかふ」という一首につき、富越聴雨氏が、

病人に対して、この世にすることが残っているから仏様が迎えに来ないのだと励ましている歌であり、内容がよい。然し、二句を「ある故いまだ」と直すと更によくなると思う。(せば)は・・・(若し○○であったなら)ばという反実仮想の条件を表わす語で、この場合は内容と合わないと思う。

と評言を書いている。これには私も同感である。長い日本の短歌史のなかで、用語も表現も語法も変質して行くのは当然であるが、古典の用法のなかで、守れるものはやはり守って行きたい。と、「ありせば」「なりせば」の変質を指摘しつつ、これも止むを得ないかと認めかかったのが、最後に来て私もぐっと引きしまったようだ。呵々。

 右の「ありせば」「なりせば」の類の表現は、月々の歌誌にも容易に見つかるものであろう。専門歌人の使用例も幾つか書き止めておいたのが、紙片が見つからず、今回は省略しよう。




         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者



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