短歌雑記帳

宮地伸一の「アララギ作品評」


○朝鮮人児童の清きコーラスの列に会ふ君らが憎む記者として  河村 盛明

【小暮政次】「君ら」は、朝鮮人児童たち、或はその側に立つ人たちを指しているものと私は解して、ブルジョア新聞の手先だなどと憎まれている作者の、複雑な気持が出ている歌だと思う。「清き」は此一首では、作者の気持を出す上に必要なので、省いてしまうわけには行くまいが、標準を高くして批評すれば、問題となるだろう。しかし、「清き」に代ることばを見つけることはなかなか難しい。「君らが憎む記者として」は、これでよいと思う。

【宮地伸一】「清き」は前評の如く一応問題となる句だが、それは批評意識を無理に強めて見る時にそうなるので、「清き」という語にひっかからないではいられぬ所に「批評」自体の類型があるとさえ思われる。もっとも「清き」はどうせ実感というよりは、多分に観念的な表現だろうから、お互いにこういう事はやっていながら他人の作だとちょっと鼻につくというわけだ。だが僕もこの歌はこれでいいように思う。唯「君らが憎む記者として」だけではまだ作者自身の態度がはっきりしない。憎まれていることに対してどう考えているのかわからない。しかし歌としては、この程度で留まっていてよいのか。そこまではっきりさせる事を望むのは、私の「ないものねだり」でもあろうか。

○追ひゆきて木小屋の存置を願ふ父ああ首のタオルまで除(と)りて  中川 泰衛

【小暮政次】規則違反に建てている木小屋の取りこわしを命令して去って行く役人にお目こぼしを哀願するところであろう。或は大体それに似たところであろう。「ああ首のタオルまで除りて」は、むしろ巧み過ぎるとも思えるが此の辺まで、水準があがって来ていると云えないこともないようだ。それにしても際どい。しかし、自分の肉親が権力の前に卑屈に、哀切に嘆願しているのを見ていながら、それをどうすることも出来ない、作者の心持はくみ取れる歌である。

【宮地伸一】前評に「際どい」とあるが実際際どい歌だ。「ああ首のタオルまで除りて」は評者の立場になれば少し行き過ぎでもあり、厭味でもあるという事になろうか。「ああ」というのが、特に厭味に僕は感ぜられる。



バックナンバー