短歌雑記帳

宮地伸一の「アララギ作品評」


上村孫作の歌

若くして更に若くして上り来し同じ道ながらくるしも今日は

 一首が息長く緊張した調べに貫かれている。一、二句の重く畳みかけた表現も煩わしくなく、かえって深い歎声の裏づけとなっているようだ。

汗あゆる二上山の登り路にあはれなること思ひつつあり

 「あはれなること」とは、大津皇子の故事などではなく、もっと作者の生命に直接的な事を意味しているだろう。しかしそこは十分言い足りてないように思う。下の句は軽く流れた感じがする。

むらさきに陰立つ今日の葛城も忘れざるべし「大和鴨山」のことも

 「むらさきに陰立つ今日の葛城」は実にいい句だと思う。一首がしみじみとしていて、沈痛の趣さえある。結句の『「大和鴨山」のことも』は、作者としては是非言いたかったところだろうと思うが、ここは整理すべきではなかったかという気もする。「葛城も忘れざるべし」の句の中へ、そういう感慨も潜め得るのではあるまいか。

目下の池の一つを依羅(よさみ)とし二上山を下りゆかむとす

 人麻呂の妻依羅娘子が河内の依羅に住んでいたと考える「大和鴨山」の説を念頭に置いての作か。それに作者自身の古い地名解釈の方法も加わっているのであろう。しかしそういうものは奥に潜めて単純な詠風になっているのが好ましい。

葛城は夕沈みきて古き世にありがよひし道思ふも楽し

 「葛城は夕沈みきて」もなかなかいい句である。「古き世にありがよひし道」は、私ははじめ古代に相通ずる道、古えを思わしめるような道という意味かと思ったが「ありがよふ」は、やはり万葉の語義のままで、ここは古代人がいつも通った道という意味であろう。人麻呂が大和の方から峠を越えて河内の依羅娘子の許へ通ったのかも知れないという「大和鴨山」の説が、特にここでも顧みられているのであろう。情景ともぴったりと融合して、この作者のいい面を出しているというべきか。今月の一連はいわば「万葉紀行」の歌であるが、いたずらなる趣味的な詠嘆でなく、名所見物みたいな要素がなく、作者の内面からにじみ出てくるような声がある。それは「紅に染みし一葉に触るる吾のぼり来る日のなきかと思ひて」という感慨が底に流れているためであろう。今月のは心惹かれるものが多かった。

昭和三十六年三月号 

 (漢字は新字体に、仮名は新仮名遣いに書き換えました。)



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