短歌雑記帳

宮地伸一の「アララギ作品評」

 土屋文明の歌 (前)

保たれて七十五年の命なれば大切にして今年生くべし     (二月号)

 初頭にまず房総旅行の三十余首(アララギ)「みちのく六篇」(短歌研究)「能登奈良越中」(短歌)の大作二百七十首余りに接し、瞠目させられた。新年号に多くの作品を発表されるのはここ数年の例であるが、本年は質量ともにめざましく、他の追随を許さぬものがあった。これが「七十五年」の作者であるとは到底思えぬ程である。それらの作品は

見ざらむ後の世の様にこだはる日も古になづみ遊覧の日も    (十一月号)

の「古になづみ遊覧」した結果のものと言えるかも知れない。その「古」は万葉時代から作者自身の過去まで含んだ古えであって、そこに鴎外のいわゆる「人は老いてレトロスペクチイフの境界に入る」という言葉も思い出されるわけであるが、しかし佐千夫や赤彦の晩年に見られたわびやさびに通うような境地はまずないと言ってよい。

 常になまなましい人間を露出しているので、表現も絶えず動揺し、形式的な完成を自ら毀しているようなところがある。「みちのく」や「能登」の大作についてはすでに取り上げられているが、私は「能登」の諸詠、中でも特に

暗谷に草に埋れてい坐すなら名告りをあげよ越中伊夜彦の神
島の夜の一夜の宿り雨しげし伊夜姫は伊夜彦を恋ひ眠るらむ

などには感銘を深くした。ここでは作者と万葉がまさに一体となり息づいているという感じだ。越中伊夜彦の神も感応あれと祈りたい程である。こういう幻想のまじった抒情は、従来この作者には見られなかったのではないか。

朝に食ひ夕べに食ひてキャベツ一つ食ひ終るまで山に留りぬ    (八月号)
蒔いても蒔いても青菜を食ひ盡す者眉間白き兎に今日対面す    (同)
露のある朝の諸草しづかなる坂に一年の老を知るべく       (九月号)
我が道の前に降りたる何鳥かなな色にほふつばさをさめて      (同)
この坂に昨日は沢胡桃あるを知り今日は気づく裏白の木の青き実に  (十月号) 

これらは山中湖畔での詠作と見られるが、「山下水」「自流泉」の「川戸雑詠」の続篇と言ってもよいものであろう。ただ先の川戸雑詠が「戦後」そのものの表白だったのに、これには「戦後」を脱した平安さが漂っているようである。

昭和四十一年一月号

(漢字は新字体に、仮名は新仮名遣いに書き換えました。段落も追加しています)



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