短歌雑記帳

「歌言葉考言学」抄

 「人恋はば」再考

  馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人恋はば人あやむるこころ  『感幻樂』

 言うまでもなく塚本邦雄氏の有名な一首である。この歌の「人恋はば」については私は意見を述べたことがある。(「明日香」昭和58・7)「恋ふ」という動詞は、もともと上二段活用であるから「恋はば」とはならず「人恋ひば」と言うべきで、万葉集にも「恋ひばいかにせむ」などとあると指摘しておいた。しかし「人恋ひば人あやむるこころ」では、何か落ちつかなくてせっかくの名歌も価値がさがってしまうという感じも一方では持つのである。この点につきまた意見を述べてみたい。
 
 実はその後、塚本氏に逢った時に御本人もこの「人恋はば」を気にされてはいたが、すでに中世に「恋ふ」の四段活用の例があるとも言われた。「妻恋ふる鹿」を「妻恋ふ鹿」と言った例はたしかにある。しかし「恋はば」というような未然形の古い例はないのではないかとひそかに私は思っていた。

 最近、『近代動詞の諸相ー作家の表現を中心として』(宮地幸一著 桜楓社)という本の「恋ひる・恋ふ考」を読んで、鎌倉時代の藤原家隆の「壬二集」に次の一首があることを知った。

  侘びつつは顕はれてだに打ち歎き思ふばかりも人を恋はばや

 そうすると広辞苑第四版の「恋う」の説明に「本来、上二段動詞。室町期頃から四段にも活用。」とあるが、室町期よりももっと古い時代からその四段化は始まっているので、広辞苑の説明は正確ではない。なお右の『近代動詞の諸相』には、明治時代の小説からの次のような用例もあげている。

  ○小手利の色男様を誰か恋はぬはなけれども  (紅葉「大鼻毛」)
  ○昔時は我死ぬほど人に恋はれてもつらくあたり(露伴「対觸髏」)
  ○如何に徳川幕府を東君が恋はれた所で    (蘆花「黒潮」)

 こういう例を見ると、「恋ふ」の未然形を使った「恋はぬ」「恋はれ」などの形は、当時文章語としてはもう普通だったのではないか。もっとも江戸時代にも田安宗武の「吾は恋へど汝は背くかも汝を背く人を恋はせて我よそに見ん」などの例があることは、私もすでに書いておいた。「恋へど」「恋はせて」とすでに言っているのだ。『近世俳句大索引』には「恋はれてはころりころりと女猫かな」(此君)という句も見つかる。

 そうすると中村憲吉も「潮ざゐの夕香はぬるく身をそそれ恋はじとすれど渚潮ざゐ」を『林泉集』に収める際に注意されて「恋ひじとすれど」と改めたが、その必要もなかったと言えるかもしれない。「恋はじ」と憲吉が言ってもそれは無知で漫然とやったのではなく、そういう表現の長い伝統が背後にあったと言えるのである。窪田空穂ほどの歌人でも、

  逢ふ期(ご)なき妻にしあるをそのかみの処女(をとめ)となりて我れを恋はしむ         『土を眺めて』

とやっているのだ。だから塚本作品の「人恋はば」も、何の畏るることあらんやと言えば言えるであろう。

 最近気がついた例としては、春日井建氏の、

  赤児にて聖なる乳首吸ひたるを終としわれは女を恋はず  『未青年』

がある。

 ついでに言えば、最近の国技辞典は、「恋う」を口語としては五段活用として扱うものが多い。

 それが当然作歌のうえにも反映するようになる。今、手もとにある『未青年』から引くと、

  油絵を描きたかりき宵に見し人恋ふ夢のあかるき裸像
  狼少年の森恋ふ白歯のつめたさを薄明にめざめたる時われも持つ
  少年の眼が青貝に似て恋へる夜の海鳴りとうら若き漁夫

 本来の上二段活用としてはやはり「人恋ふる「森恋ふる」と言うべきなのである。また「恋へる」という言い方も、「恋ふ」に助動詞の「り」は付かないから、語法上は誤になる。しかしもう「恋へる」「恋へり」に違和感を感ずる人は少いであろう。それだけ四段(口語五段)化が進んでいるのだ。もっとも先に触れたように「妻恋ふる鹿」を「妻恋ふ鹿」として「る」を落とす例は、鎌倉時代あたりに早くも見える。現代の作者が「る」を落としても今さら非難することはできまい。

  中国の景したひ恋ふ庭造り自由に今はゆく西湖も盧山も 
             窪田章一郎(「短歌研究」平5・5)
  人恋へる一時期迷ふ心(うら)地獄蟻地獄なるを気取れず過ぎつ
                  加倉井只志(「短歌」平5・8)

 こういう例は、月々の歌誌に容易に見つかるものではあるまいか。今はたまたま目についた二首をあげておく。それから、  

  夢さめてさめたる夢は恋はねども春荒寥とわがいのちあり
                  筏井嘉一『荒栲』の一首

を思い出したので追記しておく。



         筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者


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