作品紹介
 
選者の歌
(令和8年7月号) 
 
    東 京 雁部 貞夫
  君と行きし坂の上の西洋料理店カレーライスが天下一品
国稀の蔵元見むと断崖を削りし「黄金道路」を飛ばしに飛ばす
 
    さいたま 倉林 美千子
  現世うつしよの美しきものの一つよと病室に見る真冬の富士を
竹林ちくりんをゆく風の色夕月の白き光も見てゐる生きて
 
    柏 今野 英山
  里山の叡智は役に立たぬのか刈りし草木はただ捨てられる
子供らの群れては遊ぶ声ひびく中々ないぞこのあたりまへ
 
    横 浜 大窪 和子
  テレビに流るるAIの誤読甚だし未来の日本語乱すことなきや
四月の庭につぎつぎと咲く薔薇つつじ庭仕事好みし貴女に供ふ
 
    札 幌 阿知良 光治
  庭に散る林檎の小枝を烏二羽咥へ持ちゆく巣作りならむ
昨年植ゑし小松菜伸びて朝々の食卓に出せば食の進みぬ
 
    神 戸 谷 夏井
  裸眼にてパソコンを打つ新聞読むこの感動を告げたき友あり
濁りたる水晶体を除くごとこの世のいくさ消えて無くなれ
 
 
運営委員の歌
 
    能 美 小田 利文
  「最善は私がイランを去ることだ」道化師の赤き鼻送らむか
始業式に向かふ自転車けながら妻と歩めり桜の道を
 
    生 駒 小松 昶
  MRIの轟音の狭間に流れくるモーツアルトのピアノに吾が蘇生する
青茜の空に光れるジェット機の漆黒の嶺に消えてゆきたり
 
    東 京 清野 八枝
  君を愛し支ふる若き研究者夫君の笑顔爽やかにして
夜桜をつつむ雲海薄れゆき料亭に夫の米寿を祝ふ
 
    広 島 水野 康幸
  背の高き黒人も吾らに交じりゐて学校食堂の券買ひに待つ
妻と吾のいづれが先に世を去るや今日は二人してラジオ体操す
 
    島 田 八木 康子
  ジンジャーの最後の花芽も葉に包まれ萎れゆきたり風に震へて
2010年全国歌会の担当表出づその半数は歌誌に名を見ず
 
 
先人の歌
 

 無名のひと矢口賢三

 全く無名の人、矢口賢三氏とその歌について紹介したい。
 彼は、呉の短歌会に1〜2回参加したことがあるのみで、アララギに投稿したことも無いのではないかと、思われる。私の父の友人だった。氏は若くして妻を失い、生涯を日雇い労務者として、男手ひとつで苦労して子を育てた。妻は行商人だった人で、野呂山の道を廻って家に帰って来る歌を矢口氏は詠んでいる。

 歌六首
 ・耳立つればかすか聞ゆるこほろぎは関帝廟のみぎりなるべし
 ・炬燵より飯櫃いいびつ出してくれし妻よ死にすれば思ふよきところのみ
 ・ひんがしの野呂みねのみちのとほ見ゆる日暮れは妻の帰るかと思ふ
 ・焼きつなし紙に包みてさげ持てるわれの一生は富むことなけむ
 ・しづかなる光は天につらなりてすがしくもあるか草原の上
 ・新しく紙はりかへし障子戸の中に起き伏す老いもまたたぬし

 歌人ではないが、矢口賢三のように全く学歴が無く、日雇い労務者として生涯を過ごした人でも優れた歌を残しており、万葉集の例を出すまでもなく、あらためて歌は平等であることに、その優れた特性があることを感じざるを得ない。


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